校長会の研究 第4回「県高校長協会と強制異動方針」   2000.6.7

■委員会活動
 さきに見たとおり、県高校長協会には全部で8つの委員会が置かれている。
 各委員会への校長151人の割り振りは、4月なかば、始業式の1週間後に一斉に開催される5地区校長会総会の場でおこなわれる。ところが各校長は自己の所属する委員会を毎年度自由に選択するのではなく、事実上は在職校ごとに所属委員会が決まっている。今年度割り振りの変更があったのは、151校中10校にすぎず、水戸地区(45校)と県西地区(40校)は一切変更がなかった。校長には活動分野の選択の自由すらないので
あり、「教育研究」を標榜する団体にはまことに相応しくない。県高校長協会の硬直化、形骸化の1つのあらわれといえよう。
 続いて、4月中旬の県高校長協会全体会の際、委員会ごとに打合せをおこなって役員(正副委員長各1名と書記2ないし3名)が選出される。ちなみに今年度の各委員会の委員長は、管理委員会・秋葉(妻一)、財政委員会・平井(勝工)、制度調査委員会・下代(中央)、生徒指導委員会・染谷(三和)、学習指導委員会・鶴見(土工)、進路指導委員会・富永(取松)、給与厚生委員会・佐伯(友東養)、広報委員会・緑川(水桜)の各校長である。

■「当局に建議または意見の公表」
  県高校長協会は、「事業」について定めた規約第3条の第4項で「必要に応じ当局に建議または意見の公表」をおこなうこととしている。これに基づいて協会は「教職員人事について」および「予算等に関する課題について」と題するふたつの要求書を毎年度作成し、県教育委員会に提出している。人事に関する要求書は管理委員会が、予算に関する要求書は財政委員会が、それぞれ原案を作成。昨年度の、管理委員会による人事要求書の作成から提出にいたる過程は次のようなものであった。
1999(平成11)年4月から9月までの間に役員会と委員会をそれぞれ3回開催し、全校長対象のアンケート実施と集計、要求書案の作成をおこなった。各段階でそのつど拡大総務会と県高校長協会全体会に対して中間報告がおこなわれた。(拡大総務会とは、協会長、副協会長4名、書記2名、会計1名、各地区校長会長計5名、各委員会委員長計8名と臨時に置かれる特別委員会の委員長、総計22名からなる。県高校長協会の実質的な意思決定・執行機関である。)
10月15日、県庁22階の教育委員室で、県高校長協会幹部から川俣勝慶県教育長に手渡された。


教職員人事についての要求書
 12年度教職員人事について」は、このような、ほとんど煩瑣といってよい手続きを経て作成されたのであるが、前年度の要求書と較べてみると字句上の差異が少しあるだけで、ほぼ同じような内容である。要求書の内容上のポイントは次の2点に尽きる。
 第1は、「平成7年度から実施された人事異動方針に基づく教職員の配置換えは、人事の停滞や硬直化を改善し、学校の活性化に寄与するなど、概ね好結果をもたらし、同方針の一層の定着化がみられました。」として、「強制異動方針」の継続を求めるものである。 第2に、「平成12年度の人事異動に当たっては、引続きその主旨の定着を期するとともに、優れた人材を活用し、教職員組織の1層の充実と教職員の勤務意欲の高揚を図り、更に教育効果を高めるために、校長の意見を十分に取り入れ、特に下記の事項について特段の配慮を賜るようお願いいたします。」と、「校長の意見」の尊重を求めるものである。 


■杉田光良議員の県議会質問
 1993(平成5)年の4月から6月にかけて、教育庁教職員第二課(1996〔平成8〕年度以降、現在の「高校教育課」に名称変更)は、3月に発表した新入試制度に対する猛烈な批判を浴び、おおいに窮していた。とても強制人事異動方針の策定作業に専念できる状態ではなかった。
 6月15日、茨城県議会定例会で、水海道市選挙区選出の杉田光良議員(自由民主党)が、高校教職員の「長期在職」問題を取りあげて教育長に質問した。これに対して角田芳夫教育長(現在県副知事)が、「他県の状況や高等学校長協会などの意見を取り入れながら、新しい人事異動のあり方を検討してまいる所存であります。」と答弁したところ、杉田議員は「なぜそういうふうに高等学校の教職員がそういう実態なのか、これは、この場で、教育長答えにくいかもしれませんけれども、ひとつ積極的に、その対策には当たっていただきたいというふうに思います。」と述べた(平成5年第2回茨城県議会定例会会議録第3号、108ページ以下)。
 「この場」ではとても口にできないようなことであると言いながら、結局は言ってしまったも同然である。杉田議員は、県立学校教職員がおこなう職員団体(茨城県高等学校教職員組合)の活動や、市民運動を弱体化させることを目的として、「長期在職問題」を口実に強制異動方針を導入するよう示唆したのである。
 強制異動方針と「長期在職問題」との間には、通常考えられるような必然的な関連性はない。
1984(昭和59)年、32.9%であった10年以上在職者(4月1日現在、以下同じ)は以後徐々に減少し、1988(昭和63)年には30%を切り、強制異動方針導入直前には23.6%にまで低下していた。1995年の第1回目の強制異動を含む人事異動によって21.3%になったが、以降は下げ止まり、5回めの1999年度人事異動の結果は21.2%である。
まるですべての問題が一挙に解決するかのような触れ込みで導入された強制異動方針であったが、予想通りの結果となっている。 


■校長会アンケートと強制異動方針導入

 杉田議員の質問と連動し、教職員第二課に強制異動方針導入の圧力をかけたのが、角田教育長が答弁中で言及した「県高校長協会」である。1993年10月14日、県高校長協会から県教育委員会あてに人事に関する要求書が提出された。
 じつをいうと、この要求書「平成6年度教職員人事について」は、すでに廃棄されてしまっており、現存しない。不利益処分に関する県人事委員会の審理が進行中であり、裁決の如何によっては行政訴訟も予想される中での証拠物隠滅であり、容認できない。
 さいわい当該要求書の根拠になったと思われる、管理委員会によるアンケート集計結果の文書が残っている。その「教員の人事等に関する調査集計(秘)」によれば、「教員の異動指標になるような、新しい異動ルールの確立を望む意見がありますが、どのようにお考えですか」という問いに対して、校長
128人(病気で1人欠けたようである)の回答は、「賛成」91人、「反対」24人、「保留」13人との結果だった。「新しい異動ルール」といっても中身の説明が一切なく、これでは賛成も反対もできまいと思われる質問であるが、校長たちはとにかく強制異動による「現状打破」を望んだようである。
 その他の具体的な質問に対する答えを見てみる。同一校在職何年で異動させるべきかについては、「10年」が40人、「15年」が69人、「20年」が6人。同1市内の異動は、「させないほうがよい」が54人、「水戸・土浦を除けばよい」が28人、「学校による限定(例、竹園・並木間は不可、竹園・筑波間は可)をすればよい」が35人」、等である。
 こうして、県高校長協会は、「長期在職解消」のための「新異動ルール」導入をもとめる意見をふくむ文書「教員の人事等に関する調査集計(秘)」を、93年7月5日付けで、県教育委員会に提出した。杉田議員の県議会質問と、県高校長協会から提出された意見書に叱咤激励されて、教職員第二課の秋山和衛人事係長(現在太田一高校長)らは、この年の盛夏から晩秋にかけて、統計データの整理、新方針の原案の作成、教職員向けパンフレットの作成などに精励した。よほど時間がなかったとみえ、パンフレットはタイトルから構成、文言にいたるまで群馬県教育委員会発行のものの盗作であり、しかも掲載された統計データは改竄と間違いだらけであった。
 1年の予告期間をおいて、95年度人事異動から強制異動が実施されることとなり、対象年限は、県高校長協会アンケートの線に沿って「同1校在職15年」とされた。一時、「竹園・並木間は不可、竹園・筑波間は可」式の学校間格差を考慮した交流の可能性も模索されたが、すぐに撤回された。10月末頃には111高校を24グループに分ける「グループ方式」の区割り地図も確定した。こうして長期在職者に対する違法な差別取扱人事の骨格が確定した。


■「校長先生のご理解とご支持」 
 ところで、教育庁高校教育課に保存されている要求書は、年度によって「(案)」と付記されたものがある。教育長に提出された文書に、誤って「(案)」と書かれていたとは到底考えられない。おそらく、拡大総務会に出席し「挨拶・指示連絡」をおこなった管理主事が持ち帰ってファイルしておいたものであろう。
 県教育委員会に「意見」を提出するための校長たちの会合参加が、公務出張扱いとなり、県費で旅費・日当が支給されるだけでも不可解であるのに、よりによって当の会合に「意見」の提出先の茨城県教育委員会高校教育課の人事担当者である管理主事が列席し、いずれ受け取ることになる「要求書」の審議に立ち会っているのである。
 管理委員会での原案作成と、管理主事も出席する拡大総務会での討議、さらに教職員第二課長と人事係長も臨席する全体会での承認手続きを経て、強制異動方針の導入をせまる意見書「教職員人事について」が県教育委員会に提出される。
 1993(平成5)年12月8日、任意団体県高校長協会全体会の席上、増田一也教職員第二課長は強制異動方針の導入を発表し、こう付け加えた。「以上のことについては、校長先生方のご意見をいただき、12月6日に拡大総務会でご理解をいただきました。しかしながら、職員団体とは数回(4回)の話し合いを持ってまいりましたが理解はいただけませんでした。今後も、理解を求めて行きたいと考えております。」うっかり聞き流してしまいそうになるが、この言葉の背景には、以上のような任意団体校長協会による県教育委員会に対する一連の圧力行使があったのである。
 そして増田課長はこうしめくくった。「申すまでもなく、まず第一に校長先生の御理解とご支持がなければ到底実現できないわけでありますので、よろしくお願いいたします。」
 人事権は「任命権者」である茨城県教育委員会が一元的に行使するというのが、茨城県教育委員会の公式の立場であったはずである。新人事異動方針(強制異動)が「校長先生の御理解とご支持がなければ到底実現できない」などということを教育庁の人事担当課長が言明するようでは、いったい実質的な人事権はどこにあるのかわからないことになる。おそるべき主客転倒である。

■強制異動の範囲拡大要求 
  県高校長協会が突き付ける要求は、さらにエスカレートし、とどまることを知らない。
 1995(平成7)年4月1日の強制異動実施から半年あまり経過した同年10月24日、県高校長協会は、要求書「平成8年度教職員人事について」を県教育委員会に提出した。そこでは、「新人事異動方針については、早期に農業・工業・商業担当教諭および養護教諭・実習助手にも適用するなど、より適切・妥当なものに改善するよう努める」ことが要求されていた。
 この時の協会長は増田一也水海道一高校長である。彼は2年前の1993年度には教職員第二課長として強制異動方針の策定を指揮したのであるが、その際、農業、工業、商業担当教諭については「当分の間」は15年(新採8年)での強制異動の対象としないこととした。職業学科削減を推進してきた成果が現われ、県内の職業高校数が減少したこともあり、また学科によっては県内に1校だけに設置されている場合もあり、事実上これら教科の教諭および実習助手については、一律の強制異動をおこなうことは極度に困難もしくは不可能と判断したためである。養護教諭については、各校に1名であるため、1律の強制異動は著しく困難と見て対象から外したのであった。(ところがこの時、教職員第二課は、同様に各校1名である芸術科の教諭については、これを強制異動の対象にしてしまった。音楽・美術・書道など、相互に代替がきかないことすら忘れて、まるで「芸術科教諭」が複数配置されているものと勘違いしたのかも知れない。それほど慌てていたのである。このため、強制異動させた美術の教諭に、あろうことか英語を担当させるというとんでもないことさえ起きている。)
 課長であった時には、無理だと判断して実施を回避した事柄について、校長に戻ったとたん
一転してその実行を迫る。この無責任体質は、増田協会長1人に限ったことではない。県高校長協会に集う校長たちは、もっぱら各学校において、校長たる自分たちにとって邪魔者とみなした教職員を追放するための手段として、思慮もなく強制異動方針導入を叫んだのであった。
 彼らは、それが地方公務員法違反の「不平等取扱い」にあたる違法行為であることなどには、いっさい頓着しなかった。そして、実施することによる学校教育上の諸問題の発生(とりわけ、「教育困難校」における教職員配置への悪影響)などすこしも考えなかったのである。

 次号では、強制異動をめぐる県高校長協会のその後の対応状況について検討する。)



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